【西郷どん】良妻賢母を激怒させた大事件とは!?

ドラマ『西郷どん』でついに西郷どんと結ばれた三番目の妻・糸子。心優しい性格で、良妻賢母と名高い彼女が、夫亡き後に大激怒したというエピソードが残されています。さて彼女を怒らせた理由とは…?

あまりに事実と違う!? 除幕式で激怒した糸子

【西郷どん】良妻賢母を激怒させた大事件とは!?

(Image:Shutterstock.com)

 NHK大河ドラマ『西郷どん』29話(2018年8月5日放送分)で、ついに西郷吉之助(鈴木亮平)の3番目の妻として結ばれた、糸子(黒木華)。彼女を知る人物たちによると、多忙でなかなか帰ってこない夫を支え、大家族の西郷家を切り盛りし、3人の子どもたちを立派に育て上げ…と、まさに良妻賢母と呼ぶにふさわしい女性だったようです。また冗談が好きでいつも明るく、とても優しく物腰のやわらかい性格の持ち主であったとも言われている糸子ですが、そんな彼女が激怒したと言われるエピソードが残されています。
 西郷の自刃から10年後の明治22年、それまで西南戦争を起こした「賊軍の将」とされていた西郷でしたが、生前から彼を気に入っていた明治天皇は「大日本帝国憲法」発布に伴う大赦という形でその名誉を回復、西郷を西南戦争以前にの官位「正三位」に復位させました。これによって、明治31年に、上野にあの西郷隆盛の銅像が建立されることになったのです。
 しかし、その除幕式に招かれた糸子は銅像を見て「宿んしはこげな人じゃなかったこてえ!」(主人はこんな人じゃなかった!)と激怒したと言われています。その理由は「(西郷は)浴衣のようなだらしない格好で外出するような人ではなかった」というもの。たしかに西郷隆盛は「誰に合うにも礼節と正装を欠かさなかった」人物だと言われており、そうであるのなら銅像の格好は、事実と大きくかけ離れているということになります。

なぜ事実と違う服装になったのか?

【西郷どん】良妻賢母を激怒させた大事件とは!?

 では、なぜ上野の西郷像は浴衣姿になってしまったのでしょうか。一説には、当時はまだ西郷への反感を持つ政治家が多かった時代であり、建立への反対派も多かったため「(大将服などの)正装をさせるわけにはいかなかった」という政治的理由が背景にあったのではと言われています。また、この理由に関して、像の作者であった明治の彫刻家高村光雲の子・高村光太郎は自著『回想録』で、制作時の様子とともに次のように回想しています。
 西郷さんの像の方は学校の庭の運動場の所に小屋を拵え、木型を多勢で作った。私は小学校の往還いきかえりに彼処を通るので、始終立寄って見ていた。
あの像は、南洲(西郷隆盛)を知っているという顕官(地位の高い官職の役人)が沢山いるので、いろんな人が見に来て皆自分が接した南洲の風貌を主張したらしい。
伊藤(博文)さんなどは陸軍大将の服装がいいと言ったが、海軍大臣をしていた樺山(樺山資紀)さんは、鹿児島に帰って狩をしているところがいい、南洲の真骨頂はそういう所にあるという意見を頑張って曲げないので結局そこに落ちついた。
 西郷隆盛の格好に関しては多くのお偉いさんが口を出してきて、その中で銅像建立の建設委員長として最も権力を持っていた海軍大臣(当時)樺山資紀が主張を押し通したというのです。
 この樺山資紀という人物は、ドラマ『西郷どん』にも登場した「子ども同士で教えさせる」薩摩藩の教育法「郷中制度」で、西郷の稚児(弟子)であった人物で、幼馴染だったと言われています。しかし成人以降、樺山は明治政府側に、西郷は旧薩摩藩士族側となったため、接点はなかったと言われています(西南戦争の熊本城攻防戦で、敵対したことはあるようですが)。さらに西郷が写真を残していなかったことを思えば、おそらく樺山は大人になった西郷隆盛を見たことがなかったはずです。
 2人の接点が幼少時代だけであったと考えると、もしかしたら像が浴衣というラフな格好である理由は、樺山の中の西郷が「幼馴染の二才(師匠)」の頃で止まっていたからなのではないでしょうか。もしそうならば、上野の西郷隆盛は「頭大人、体は子ども」と『名探偵コナン』ばりにチグハグなものになっている…のかしれません。
 西郷どんを支え続けた、心優しい性格の良妻賢母を激怒させた上野の銅像。そんな彼女の魂を鎮めるためにも、『西郷どん』ブームに乗っかって軍服姿でイケメンの西郷隆盛像を作るしかない!?

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