浦和【首都圏格差シリーズ】憧れの街の意外な現実

埼玉県の県都・浦和は、特に他県民から過小評価されることが多い街だった。駅の規模や駅前の様子は、大宮のほうが圧倒的に県都に相応しい規模だからである。
明治元(1868)年、明治政府は武蔵国の天領、旗本知行などを3つのエリアに分けて、それぞれに地県事を配置して統治させた。翌明治2(1869)年に、それぞれのエリアは大宮県、小菅県、品川県に分割された。大宮県の県庁所在地は当初東京府の馬喰町に置かれていたが、同年浦和宿に県庁が移転したことをきっかけに浦和県と改称される。さらに明治4(1871)年の廃藩置県により、岩槻県、忍県、小菅県の一部と浦和県が統合され、埼玉県が誕生する。この時、岩槻に県庁を移転する計画だったが、県庁機能を受け入れるだけの施設がなく、引き続き浦和に置かれることになった。浦和に行政機能の集積が始まる起点となったのは、埼玉県の県庁所在地として確定したこの時からといえる。
県都として行政機能の集中が始まるとともに、教育施設も浦和に集中的に設立される。明治6(1873)年に学制改正局が設置され、翌年から埼玉県師範学校と改称される。さらに明治28(1895)年に県立浦和第一尋常中学校(現浦和高校)、明治31(1898)年に埼玉女学校(現浦和一女)、大正10(1921)年には官立浦和高等学校が開校。埼玉県師範学校と官立浦和高等学校は後に埼玉大学となる。行政都市であり文教都市である現在の浦和には、こうした歴史的背景が連綿と受け継がれている。それに加えて、明治41(1908)年に埼玉県師範学校に赴任してきたひとりの教諭が教え始めたサッカーは、その後の浦和のサッカー熱の下地になっていることは間違いない。
明治時代に現在の浦和の姿はほとんど出来上がっていたともいえよう。

高級住宅街は教育水準が高い街

(Image:Osugi / Shutterstock.com)

旧浦和市民がわが街の誇りとしてきたものは、この行政、教育、サッカーの3つである。それらがなければ、全国的知名度で圧倒的に劣る大宮と(埼玉県の県庁所在地を大宮と思っている他県民は多い)、何かにつけて張り合うことはできなかったはず。
それに加えてよく聞くのが、高額所得者の多さである。現在の浦和区には、岸町や高砂、常盤と古くからの高級住宅街が点在している。しかも高級住宅街を含む学区には、進学率が高くブランド化した小学校があり、教育熱心な高所得層の流入が絶えることがない。「住まいサーフィン」が公表している「年収の高い学区ランキング」の2016年版によると、県内の学区内平均世帯年収の2から5位は浦和区内の学校が占めている(1位は中央区の上落合小学区で862万円)。
しかし高級住宅街がステータスの証になることはわかるが、高所得層が多いことで物価が高いという弊害も生じている。JR浦和駅周辺の家賃相場は大宮駅周辺と比べて、単身世帯向けの物件はわずかに安いものの、2LDKや3LDKのファミリータイプになると2~3万円ほど高くなる。浦和駅前には駅ビルのアトレ、西口に伊勢丹、コルソ、イトーヨーカドーと商業施設が密集するものの、アトレの成城石井やザ・ガーデン自由が丘、伊勢丹の地下食品売り場が庶民価格とはとても思えない。かろうじて、イトーヨーカドーがあることで、庶民は救われている。
平成29(2017)年7月、浦和駅東口のパルコから大丸が撤退する。アトレ開店以後、売り上げが落ち込んだことによるそうだが、浦和の高所得層のニーズが飽和状態にあることを裏づけるトピックでもある。これが浦和の限界と決め付けるのは早計に過ぎるだろうか?

「お勉強」以外の教育環境には弱点も

(Image:Osugi / Shutterstock.com)

教育環境が整っていることがウリの浦和区だが、子育て環境としては首を捻ってしまうことも多い。例えば小さな子供がいる家庭なら、小規模でも毎日連れて行ける近場の公園があると嬉しいものだが、駅周辺の集住エリアにはあまり公園がない。教育熱が過剰なあまり習い事が多くて、子供たちが友達と遊ぶ時間さえない。だから学校で友達はできても、放課後や休日に遊ぶ友達がいない。子供目線で考えてみると、なんだか気の毒になってしまう。

引用元:首都圏格差 首都圏生活研究会 (著)(三交社刊)

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