2013年に発売された国産手書きタブレット「enchantMOON」。ユビキタスエンターテインメント(UEI)が手掛けたいわば「意欲作」であり、発売当時は各種通販サイトや家電量販店でも取り扱われ、話題に。
たとえばカメラを起動するには「camera」とペンで手書きし、それを丸で囲んで起動するという新しい操作性が注目を浴びました。しかしenchantMOONは2024年現在、公式サイトが閉鎖済み。新品はおろか、中古市場でもほぼ端末を目にすることがないのが現状ではないでしょうか。国産手書きタブレットの意欲的な挑戦は「失敗」だったのでしょうか?
2013年に発売された「enchantMOON」
「enchantMOON」が目指していたのは、「紙の再発明」。そのため「ペンによる操作」が徹底されていたのが特徴的であり、先にも述べた通り「camera」と書き込み、それを指で囲むとカメラアプリが起動したり、調べたいワードを書き込んで丸で書き込めばブラウザが立ち上がって検索できるといった具合の端末でした。
科学者のアラン・ケイ氏が「理想のパーソナルコンピュータ」と唱える概念である「ダイナブック(※本のようなサイズで文字・映像・音声の入出力機能があり、人間が創造的な思考を深めるために使える端末)」を目指した一台であったと位置付けることもできるでしょう。
なおenchantMOONの開発には、哲学者の東浩紀氏をはじめ、映画監督の樋口真嗣氏、イラストレーターの安倍吉俊氏らが参加しました。特に東浩紀氏は、文化史の視点から「手書きで入力するマシンは世の中のためになる」という開発チームの仮説を検証し、記録手段の変遷を踏まえて手書きへの回帰を提唱しました。この哲学的アプローチも、enchantMOONの独特な設計思想に大きな影響を与えています。
「手書き」×「ビジュアルプログラミング」×「実行環境」
アラン・ケイが目指した「ダイナブック」のような端末であり、紙の再発明を目指したタブレットと言っても「具体的に何ができるのか」のイメージがつかない方も多いでしょう。
enchantMOONは簡単に言えば、自分の文字や絵を「シール」にしたうえで、そのシールを対象としたプログラミングもできるタブレットでした。
つまり「手書き」×「ビジュアルプログラミング」×「実行環境」という機能を備えた端末だったと言えます。
そのためenchantMOONには、手書き入力に最適化された専用OSと、独自のビジュアルプログラミング言語「MOONBlock」が搭載されていました。「自分が書いた手書きの文字やシール」を対象に、MOONBlockで動きや機能を追加することができた形です。
「途中まで書いたら機械が続きを書く」時代の前触れ?
enchantMOONを開発・販売したユビキタスエンターテインメント(UEI)の代表取締役社長・清水亮氏は2014年8月22日に当時のTwitter(現X)に、PlayStationの生みの親として知られる夛良木健氏よりenchantMOONについて「これは人間の思考そのものを直接加速できる可能性がある」と評されたことを投稿しています。さらに、「ディープラーニングを活用し、『途中まで書いたら機械が勝手に続きを書いてくれるようにできる』んじゃないか」と言われたそう。(引用:清水亮氏公式Xより)
「途中まで書いたら機械が続きを書く」ことは、2024年現在はChatGPTに代表される生成AIが実現していることの1つでしょう。
冒頭でも述べた通り、enchantMOONは2024年現在は公式サイト自体が閉鎖されている状態です。しかし仮に2024年現在に端末が登場していたら、高度な手書き機能やビジュアルプログラミングに加えて「AI」が機能に加わったうえで「途中まで書いたら機械が続きを書く」ことを実現していたかもしれませんね。
enchantMoonは「失敗」だったのか?
話題性や先見の明、哲学性などが感じられる端末であった「enchantMoon」ですが、2024年現在は公式サイトが閉鎖済み。開発元のユビキタスエンターテインメント(UEI)も2020年に解散しています。
enchantMOONは強烈なインパクトを残したプロダクトですが、少なくとも市場にはなかなか受け入れられず「失敗」したと言わざるを得ないでしょう。ではなぜ「失敗」したのでしょうか。要因を考察していきましょう。
そもそも「自主的な創造」を促すタブレットである
enchantMOONは、単なる情報消費デバイスではなく、ユーザーの創造性を引き出し、自主的な創造を促すことを目的としていました。実用的な範囲で言えば、紙のノートなどを使って、手書きでクリエイティブな作業をしている方などを対象としたタブレットであったと言えるでしょう。
もっとも2013年時点でも、こうした方を対象としたプロダクトは少なからず存在しました。たとえば「単にデジタルデバイスで手書きをしたい」ならば、2010年にキングジムからブギーボードが発売済み。
また2012年にはサムスンから「GALAXY Note」(型番:SC-05D)が登場済み。Sペンと呼ばれるペンを使い、手書きメモやマップへの書き込みといったことも可能でした。なおサムスンからすでにSペンが登場していたことから、iPad対応のペンの登場も2013年頃には「時間の問題」と見られており、2015年にはApple Pencilが発売されました。
2013年時点で「手書きそのもの」はGalaxy Noteやブギーボードなどで一定のニーズを満たせる状況ができあがっており、Apple Pencilの登場も「時間の問題」だったと言えます。つまりライトな手書きニーズはすでに満たされており、enchantMOONは「ハードコアな手書きニーズ」を満たすための端末だったと言えるでしょう。
そうした「手書きのこだわりを持つクリエイター層」は良くも悪くもニッチ層ではないか?というのは、端末コンセプトへの不安点として指摘できます。また「紙を上回る書き心地や、思いついたことをすぐ書ける起動の早さなどがなければ、紙にこだわる人は満足できないのではないか」という点も、同じく不安点として指摘できるでしょう。
良くも悪くも「MOONBlock」による制約が大きい
手書きで作ったシールに対して「MOONBlock」でプログラミングが可能な点もenchantMOONの特徴です。もっとも、MOONBlockは簡単なゲーム作成などに適したビジュアルプログラミング言語の1つです。
つまりJavaScriptやJava、Pythonなどプログラミング言語の知識を持つ方が、手書きでメモしつつコーディングもする端末としては物足りない側面があります。
またプログラミング知識がない方にとっては、端末を使いこなすためにMOONBlockの学習コストが発生してしまう点が「めんどくさい」ポイントの1つ。Galaxy Noteに思いついたアイデアやスケッチ、設計図などを手書きで書いたうえでEvernoteに同期させる方が直感的かつ実務的にも使いやすい場面は少なくなかったでしょう。
事実、今日でもiPadにApple Pencilで手書きスケッチやメモを書いたり、スクリーンショットを撮影してそのうえに書き込み。それらのデータをNotionなどで管理している方もいるのでは?
また仮に作りこんだ「シール」を用意したとしても、動作するのはenchantMOONです。その他の端末に同期するハードルがあまりに高すぎる点も問題点だったと言えるでしょう。
動作のもっさり感などハードの問題
初期のenchantMOONは、ハードウェアの性能面で課題がありました。enchantMOONは良くも悪くもAndroid OSを一企業がフルカスタムして作り上げた2013年の端末。動作が鈍い点も、不評を集めました。こうした問題は後のバージョンアップである程度は改善されましたが、それでもなお悪印象が残ってしまった可能性があります。
enchantMoonはその後、どうなった?
前述の通り、ユビキタスエンターテインメント(UEI)は2020年に解散済み。代表だった清水氏は、2024年現在、主にBtoBを対象とするAIサービス企業を設立済み。ディープラーニングを活用し「途中まで書いたら機械が勝手に続きを書いてくれるようにできる」ということが、enchantMOONとは別の形で実現に向かっていると言えるかもしれません。
また、enchantMOONはそもそも「時代が早すぎたデバイス」だったかもしれません。今日のタブレットの性能やAndroid OSであれば、2013年時点よりは端末の起動や書き心地自体もより快適な設計ができた可能性もあります。
加えて今日、同等のコンセプトのデバイスが設計された場合、手書きの文章やイラスト、設計図のラフをAIが認識したうえで清書。そのうえで、enchantMOONの売りでもあった「シール機能」も、シールに付けたい機能を手書きで書いたらAIが自動で実装するようなものになっていたかもしれません。
※サムネイル画像は(Image:「enchantMOON」公式サイト(2013年時点:Wayback Machine)より引用)